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憂鬱の窓から歩み出る―國際知名写真芸術家紀国章教授

文/楊齡媛Taiwan Panorama 與行政院新聞局TR雜誌 2005年9~10月號專訪) 

春の爽やかな空気がまだ台北に残っている頃、一群の学生たちが台北市立美術館の地下室に入りこんで、印象派を思わせる100点余りの写真作品に見入っていた。その中には墨で輪郭を描いたと見られる線描図が数点、実景と油絵画像を組み合わせた作品さえ入り混じっていて、見るものを驚かせる。「これが写真なのだろうか、抽象画みたいだ」「こんな風にも写真を撮れるものなのか」と声が上がる。

この写真展は花蓮出身の紀国章が12年をかけた創作をまとめた「色彩三部曲」である。シュールレアリストの画家ホアン・ミロの影響を強く受け、またカメラのリアリティの枠組みを飛び出し、絵画の美学概念とテクニックをレンズの中に持ち込み、現実の世界に抽象的画像を溶け込ませた新しい世界を表現した。

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こういった作品により、芸術家に与えられる栄誉であるユネスコの賞を受賞し、またこの20年来では、フランスのアルル国際写真フェスティバルに招待された台湾唯一の芸術家となった。その作品の数々はアルルのゴッホ文化センター、パリの国立図書館、フランスのニエプス写真美術館、パリのポンピドーセンターなどにもコレクションされており、台湾の若手写真家の中ではひときわ目立つ存在である。
色彩という記号で写真画像を構築する紀国章は、もちろん他の写真家のようにカメラ二台、三脚と望遠レンズや広角レンズを背負ってあちこちを歩き回るが、そこにさらにスケッチブックや水彩絵具、ポスターカラーと絵筆を携えている。
「まず絵筆で構想を練り、そのイメージが筆のタッチで鮮明になってから撮影を始めます」と、細身で色白、知的な話し振りの紀国章は言う。客家特有の一徹な性格で、苦労を厭わず、求めるショットのためなら何回でも同じスポットに行ってみる。しかも、撮影してきた画像はすべて一回の露光によるもので、作品はコンピュータで汚れを除く処理などはするが、殆どすべて暗室で現像して完成させる。

一つの花、一つの世界

「イメージ・窓」シリーズの作品はさまざまな感情の語彙を視覚化したものだ。人生の歴史のように、紀国章の心の奥深くにある無限の空想と憧憬と葛藤が現れている。
「平凡な事物から非凡なイメージを生み出したいのです。景色や朽ちたものに独自の永遠の美を追い求めるのが、写真の存在意義であることを誰もが忘れています」という。しかし、ガイドや本人の解説がなければ、「色彩記号」シリーズの作品に見られる絢爛とした波の文様が、実は大きな倍率の望遠レンズを使い、フランスやヨーロッパ各地の海岸や川辺で波の小さな反射点をフォーカスし、その反射から構成した写真であるとは、誰も思わないだろう。「白黒のリズム」シリーズの線の構図は、台北植物園の萎れかけたハスである。
「色影斑 」の落書きシリーズは、フランスやヨーロッパ各地の町並みで見かけた数多くの稚拙な落書きで、まず写真には撮らず、スケッチブックに必要な画像を描き、水彩絵の具で壁面を彩ってから、カメラの覗き窓を通して写真に取り込んだ。独創性に富む紀国章は、出来上がった写真に顔料で直接彩色し、夢とも現ともつかぬ幻想的雰囲気を表現する。まばゆい色彩と影をもつその作品を見ると、彼自身の多彩な人生の縮図を目の当りにするようだが、現実の彼は自閉症とうつ病に苦しみ続け、3回に渡る瀕死の体験という苦痛の烙印を記憶に焼き付けている。
「こういった作品は良くも悪くも絢爛とした夢と、外の世界、そして内心の対話のぶつかった火花なのです」と、紀国章は言う。作品にしばしば見られる青と紫は、長年にわたり内に深くこもるうつ病と幼年時代の記憶に関っている。それでも尽きることなく情熱を込めて創作を語る彼を見ていると、この人がかつては人付き合いができず、知らない人とは言葉を交わすこともできなかったとは思えない。

無言の悪夢
幼年時代に、他の子より2歳早く小学校に入った紀国章は周囲から早熟であることを迫られ、同じクラスの年上のお兄ちゃんと遊ぶのにも背伸びをする勇気が必要だったのである。学校に入ってまもなく、隣の同級生と家の前で自転車で遊んでいると、突然トラックが横道を曲がってきた。遊び友達がトラックにひき殺されるのを目撃してしまい、自分もひどい脳震盪を起こして、ショックの余りまったくしゃべれなくなり、しかも、脳の外傷のため数ヶ月お粥しか食べられなかった。その後、会話能力は回復したが、障害は残ったのである。
 

万物に好奇心を抱く紀国章にとって「色彩三部曲――色彩記号、白黒のリズム、色影斑 」の一枚一枚は彼の人生の証言でもある。彼はカメラを通して記憶の一つひとつを一枚の窓にし、その心を埋めていく。
翌年、大人の付添いなしに、同級生と海辺に遊びに行き、流砂の渦に落ちて頭まで沈みかけた。その刹那に誰かが力を込めて引っ張り上げてくれて助かったのだが、その命の恩人が誰なのか分からずじまいだった。死の淵からどうやって這い上がったのか、今も謎である。
中学校ではボーイスカウトに参加し、登山に出かけた。腕白な子供らしさを発揮して同級生とふざけていたら崖下に転げ落ちて、脊椎がひどく曲がってしまい、その後長い間家で療養しなければならなかった。
3回に渡り死の境目を彷徨い、紀国章に多くの傷を残した。「明快な言語表現ができなくて、人と話すのが怖く、閉じこもり外の世界から逃げてしまうのです」と、心身傷ついた劣等感を語る。花蓮の田舎から台北の工業高校に進学した時は適応できず、神経過敏に陥った。そして、暗い流砂に埋もれた数秒間は、一生の悪夢となったのである。
熱狂的な自己学習
幸いなことに、紀国章はカメラのファインダーの向うに異なる世界を発見した。大安工業高校の印刷科に合格したが、印刷にはさっぱり興味をもてなかった紀国章は、暗室の中で写真の世界の面白さを発見してしまった。高三の時、先生の指導もない中、たった1人で教育庁および教育部主宰の全省美術展と青年文芸創作賞写真部門に応募し、どちらも優勝した。その結果、国立芸術専科学校に推薦入学できたのである。
 

2005年4~6月「色彩三部曲」が台北市立美術館で展示された時に見学者が残したメッセージ。
写真と進学の夢を抱いて入学したものの、そこにあった教育環境はイメージと写真への熱狂的な知識欲を満たしてくれないことが分かり、印刷から美術、そして映画科へと学科を移ってみた。しかし、その旺盛な知識欲を満たせぬことに深く失望して、結局休学してしまう。それでも、在学中に写真と美術に関する多くの書籍を読み漁り、パリが写真芸術の出発点と知り、フランスへの夢を掻き立てられた。
その頃、紀国章は最初の個展開催を準備していた。小さい頃、家では多くの小鳥を飼っていたために、鳥には親近感を抱いていたので、望遠レンズを多用して、台湾中の野鳥と渡り鳥の生態を記録しており、これを個展のテーマとしたものである。それが思いがけずも注目を浴びた。というのも、紀国章の野鳥写真は単に野鳥だけの構図のみならず、波や水の光の反射を利用して、水鳥の姿とともに幻想的な風景を作り出したからである。こうして写真の大家、朗静山に認められ、その台湾における唯一の弟子となり、その後、国際的写真家となる路を開くことになったのである。
写真を熱愛していたが、紀国章は台湾で芸術を目指す者が直面する共通の問題にぶつかった。芸術で食べていけるのだと、どうやったら両親を説得できるかである。フランス留学を切望する彼は、フランスで路が開けると両親を説得した。休学していたことで、保守的な公務員の父はすでに不満であったが、息子可愛さに兵役が終ってから相談しようということになった。
「兵役の配属先抽選で海軍を引いたときは危うく倒れそうになりました」と言う通り、流砂の記憶があるので、ずっと水辺に近づかなかったのに、運命は人を弄ぶ。数週間の新兵基本訓練ですでに苦痛を覚えていたが、さらに過酷な体力訓練、トイレに行くにも報告が必要な生活は耐えがたいものであった。さらに海上勤務の日が近づくにつれ、心深く潜んでいた恐怖が浮かび上がり、激しい神経不安に襲われた。
「でも、父をまた失望させることはできませんでした」と、軍医には除隊と医学的に判定されていながら、紀国章はうつ病発症すれすれの中で兵役生活を続けていた。幸いなことに写真の技術を認められたために軍事写真担当に配属され、漸くうつ病は好転したのである。
 

印象派との出会い

 

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 「黄海岱の語る掌中歳月」は紀国章にとって1995から99年の最も重要な人文ドキュメントシリーズだ。写真は黄海岱(右)と李天禄である。

凋落の美

生命力と思いやりを感じさせる「ネパールの容貌」シリーズは、1997年にフランスの国際写真祭で半年間展示された。
フランスで高い評価を受けて、紀国章はそのままフランスで創作を続けて一生を過ごそうと考えていた。しかし、可愛がってくれた祖母が亡くなった上に、年老いて病気がちの父が息子を必要としたため、やむなく、11年前に台北に戻った。それは紀国章にとって創作の次の段階を探し求めることでもあった。
「白黒のリズム」は、祖母とよく散歩した台北植物園を懐かしんで再訪したところ、冬の枯れたハスの凄艶な美に気づいたところに始る。生の脆さと移り変りを思い、4日間かけて蓮池に通い、ハスが枯れ落ちる直前の美を捉えようとした。
ひっそりと静まり、集中して撮影している中で、野次馬が不思議そうに「あんなゴミを撮ってどうするんだ」と尋ねてくる。しかし、枯れ朽ちた枝葉でも、紀国章の美感と技術を通して、生きた写真芸術に転換できるのである。そうは言っても、シャッターチャンスを待ち続ける間にも野次馬の冷やかしをしばしば耳にするのである。こうして、台湾に帰ってからの期間は深い無力感と喪失感に落ち込むようになっていった。そんな時、紀国章はあのうつ病が再発したのではないかと、はっとしたのである。
「作品を理解してくれる人がいなくて、誰のために創作するのか分からなくなりました」と言う。この間、紀国章は台湾でしばしば作品展示の場を求めたが、毎回展覽会場や政府機関の馬鹿げた要求に困らされていた。その後、台湾の人形芝居である布袋戯の大家黄海岱の記録写真を撮り始め、この国宝級の芸術家と出会い知遇を得てから、こういった芸術に対する台湾社会の無知と軽視を再認識することになる。さらに恩師朗静山が逝去した時のことだが、国際的写真家の死に対する政府と一般の冷淡さに驚き、写真を諦めようかとさえ思った。
 

1995年9月、フランスのペルピニャン国際報道写真フェスティバルに参加した紀国章と、第二次世界大戦とベトナム戦争を経験したフォトジャーナリストのジョー・ローゼンタール氏。
台湾は長い間、功利主義に迷い芸術を重視せず、芸術を志す人は外国にキャリアを求めていき、台湾に残った人は生活のために別の道を選び、芸術を趣味に留めるしかなかった。文化産業の重要性が認識され、政府も芸術育成を重視し始めた現在でも、ごく僅かのジャンルが恩恵をこうむるだけで、写真は今でも軽視されたままなのである。
 

春を待つ

「台湾人は映画にお金は払っても、写真展のためにギャラリーに足を運ぼうとはしないし、ましてやコレクションなどは思いも寄りません」という、写真芸術に不利な環境で、紀国章はさらに思い悩んだ。
フランスでは著名なカメラマンが亡くなると、文化省が特別予算を組み、専門家チームを選んで、二年間をかけてその写真を分類、ファイリングし、修復して、デジタルデータベースを構築し、そして展示や一般への紹介を行う。また作品集や伝記も数ヶ国語で出版される。こうして組織的系統的に芸術家の作品が保存され、現実の行動で芸術家への尊敬を表現してくれる。台湾では、いつになったら芸術家はこういった重視と尊敬を受けられるようになるのだろうか。
「写真は私をうつ病と自閉症の中から引き出してくれました。この路をこれからも目的を持って歩いていきたいのです」と語る紀国章は、芸術を唯一のよりどころとして、ファインダーの中から春を待っているのである。
 

今年出版した「ヨーロッパ名写真家作品の鑑賞」「ヨーロッパ新鋭写真家作品の鑑賞」は台湾では数少ないヨーロッパの写真に関する書物だ。 

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抽象芸術とドキュメンタリー

紀国章の写真創作は二つの路線にまとめられる。一つは平易で親しみやすいドキュメンタリー様式の作品で、もう一つは画像の美学を追求し、既存の枠を超える抽象的な芸術写真である。
「台湾では全体的な美の環境が不足していて、芸術家に新しいイメージ創作を啓発してくれません。ですからドキュメンタリーや文化に向かうしかないのです」と紀国章は言う。留学するまで、彼は聯合晩報のカメラマンとして社会文化への関心と経験を深めた。19歳で始めた野鳥の生態記録作品「波光  」は高く評価され、その後「1995パリ、人生の夢」、「1997ネパールの容貌、Nepal」、「1998黄海岱の語る掌中歳月」など、モノクロの文化ドキュメンタリーは、世界各地で多くの賞を受けている。
フランス印象派とシュールレアリズムの影響を受け、紀国章はカメラで絵筆に挑戦し、夢の世界の色彩をレンズで作品に仕上げようとする。「色彩記号」シリーズ、「色影斑 」シリーズなど、ヨーロッパ滞在中の発想で今も創作しているスタイルである。
ドキュメンタリーから抽象芸術まで、紀国章の芸術生命は前デジタル時代に生まれ、ビジュアル・アートの伝統を受け継いでいる。写真家はカメラを使う画家と考え、表現するメディアや手段が違うだけであり、芸術家は無から有を生じ、心の概念を具象の図像に転換するものと考える。
しかし、紀国章はデジタル合成技術を芸術創作とは考えない。テーマ構想や光源などの要素をデジタル合成技術で解決すれば、カメラマンは過酷な天候の中で一瞬のイメージを待つ必要はなく、また光の波が齎す映像効果を計算したり、徹夜で暗室にこもり現像技術を習得する必要もない。そうであれば、写真芸術は枯れていくだろう。紀国章はフランスやヨーロッパ諸国の写真家とこんな議論をしたとき、誰もが同じ憂慮を抱いていることに気づいた。
「独創性は芸術すべてを支える柱で、デジタル技術で取替えがきくものではありません」と、デジタル技術に振り回されたくない紀国章は相変わらずカメラや三脚、重い望遠や広角レンズを背負い、世界の各地に出発し、心のイメージを追い求める。そのレンズを通して私たちが見るのは、感動的な人生の価値、敬謙な姿勢なのである。
                                                                            

 フランス留学の期間、紀国章は水を得た魚の如く美学の知識や教養を身につけ、シュールレアリズムの大家のミロの幻想や印象派の画家ゴッホの大胆な色使い、キュービズムのピカソの抽象的な美を楽しんだ。このとき、卒業作品を考えていたが、美しい風景を撮るだけの絵葉書カメラマンにはなりたくなかったので、画家がキャンバスに描くように画像を作り出したいが、レンズは固定し、景物も動かせない。天候と光線などの条件に制限され、紀国章は時間を変えて実験を続けるしかなかったのである。
その後、野鳥の生態を記録した時に発見した波の光の夢幻的な趣きを思い出した。反射する光の色彩、波紋の幾何学模様、景物を映す色合い、それが自分の求めるイメージ感覚であるように思われ、水の恐怖を克服しようと決意した。
「二年余りをかけ、フランスの海辺を回り、広い海にひらめいては消える光の点を求めました」と、紀国章は追想する。天候、季節、空の色がすべて波の反射に影響し、思い描くイメージを形作るためにしばしば海辺で丸一日を過ごした。その努力は無駄ではなく、修士課程の卒業創作作品は教授から驚きで迎えられた。紀国章はパリ第八大学視覚映像芸術科の修士を取得し、その後エコール・デ・ボザール(国立高等美術学院)の教授に招かれた。

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以下是留法藝術家紀國章教授在2004~2005年之間,在台北市立美術館與法國現代美術館展覽前後重要媒體的部份專訪報導 :

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以下為國內知名設計與藝術月刊專訪報導 :

 

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